和やか×ひまわり
こんばんは!ましゅです。
12月下旬から謎の冬期休暇に入っていた九九ブログですが、2015年もよろしくお願いします。
ちなみに前回の私の更新、次の時には卒論終わってるか逃亡してるかですみたいな終わり方をしてるもんだから不吉極まりないですね。
卒論は無事提出しましたよ~~~ヒャッフイ!
さて今回のテーマは…
和やか×ひまわり
です。
私の苦手なゆるふわワード…。
最初に見た時にアレ?っと思ったんですが、冷静に考えるとひまわりに「和やか」という形容詞は似合わないですよね。
どちらかというと「元気」「まっすぐ」「明るい」「夏」みたいな。
まぁ禁じ手:メタファーはもう初っ端で切ってしまったので今日はこの話はしないんですけどね。余談でした。
さて、お花繋がりで最近考えたことなんですが、いまどきの造花ってすごく精巧ですよね。
遠目はおろか、近付いてみても判断が付かず、触ってみてはじめてなんだこれ造花なのか~と分かるような。
普通のお店とかだとインテリアに造花を取り入れていたりもしますよね。それもすごくおしゃれ。
でも、私たちはその花がつくりものだと分かった時に
「なんだ、造花かぁ~」
と失望にも似た感想を持つのではないでしょうか。
少なくとも私はそう思ってしまいます。
明らかに価値としては生花の方が上ですよね。
カフェでおしゃれに造花を飾るのは見るものの、お墓に造花を備えたり結婚式で造花だらけというのはあまり見ない光景ですから。
(補注:以下の知恵袋で結婚式での造花は論外!という風潮がみてとれます)
見た目ではその美しさは変わらないのに、では何が私たちを失望させるのか。いったい何が生花の価値なのか。
勿論ひとつはコストの違いがあげられます。
当然生花の方が手間暇かかっていますから、コストも高いはずです。
そういう意味で造花=安っぽさという図式は十分に刷り込まれていますよね。
でもそれだったら生花にそっくりで且つコストも安い造花にもそれなりの価値があってもいいのではないでしょうか。
でも、そうではない。
随分と引っ張りましたが、でもやはり、生花にしかない価値はその「生」にあるのでしょう。
だって、生ものだし。
生きているし。
いずれは枯れてしまうし。
生きているが故に手間もかかるし、その美しさは永遠ではないのにそれでも人々はその「生」に価値を感じているんですよね。それもすごく当然のごとく、無意識レベルで。
まぁそんな結論はわかりきっていたことなんですが。
でもこの「生」の証がイコール価値に繋がるのは、突き詰めるときちんと答えられないものである、ということの方が面白い問題なんですよ。
生花は造花にはない価値がある→それは生きていることである→生きていることはそれそのものが尊いのか?
?
こうした認識って、「美」を観点としてみればものすごく人間的で邪道なものだと思うのですよ。
だって見た目で見た時に、どちらも同じくらい美しいんですよ。
でも生花をみんな選ぶわけですから。
例えばもしコストの関係で生花だと2種類の花しか飾れないけど、造花なら5種類を取り混ぜて飾れるとするじゃないですか。明らかに造花の方が見目麗しく華やかだったとするじゃないですか。
でも、それでも生花の方がいいよね!ってなるのはもはや美的観点ではなく人間的道徳に裏付けられた、知識による判断なんですよ。
それってある意味邪道だよねっていう。
これと似たような話だと、ダイヤモンドの値段が高いのはその希少性ゆえであるとかも挙げられますよね。
だってスワロフスキーも十分綺麗じゃないですか。あと多分技術的にダイヤモンドそっくりの人工物って作れるんじゃないかな。調べてないけど。
それでもダイヤモンドはダイヤモンドだから、希少だからお値段が張る。
それともう一つ、生の牛肉とか魚介類とかを「美味しそうですね~~!」と煽るのも知識に裏付けられた認識です。
だってあれ経験で美味しいって知っていないとただのグロ画像じゃないですかね。
目の情報から美味しそうは導き出せないのでこれは若干ずれた例えかもしれませんが。
はい、という訳で美的な価値と人間的知識による価値って別物だよねって話でした。
ただそれを批判したいわけではないんですよ。面白いよねこういうの、という話です。
あと生花を尊いと感じるのは知識故である、と先ほど言ったんですが、そこにはアニミズム的な思想も入ってるのかもしれない。
このあたりも研究とかしてる人いるんだろうなぁ。面白そう。
美的観点から見ると邪道であったとしても、やはりお墓や仏壇に造花を添える気持ちにはなれないので私も人の子ですね。
あ~~全然和やかでもひまわりでもないんですけど書きたいことかけて勝手に満足しました。自己満足…oh…
さて、次回はあかしです!